「らしさ」について

    さて。やっとこれを書き始めることができた。今、昼過ぎ。大学にある図書館の端っこでこれをワードで打ち込んでいる。Wi-Fiは期限を過ぎてしまっていて使えない。さっき赤部屋(コースの職員室)に行ってみたけど、なんだか気まずくなってすぐ退散してしまった。よく考えてみれば、卒業したばかりの人間が何も用がないくせに先生に話に行くのは少し失礼なのかもしれないし、向こうも新しい生徒や後輩の世話でいっぱいいっぱいだと思う。俺は働きもせずに何をしているのか。バカにされて当然である。

 

    1日1枚、こんな感じでゆるく文章を作る練習をしていこうと思う。といっても、どうせ俺のことだし一人でやってるとモチベーションが下がってくると思うので、どこかに発表するか公開する場を設けたいと思う。なんの予定もないけど。とにかく、こうやって途中で脱線しながらも自分が周りの物事に対して思っていること/考えていることを文章の形式で、日本語で整理してまとめる行為は続けていくべきだし、何も制作していない今の状態だとなおさら必要だと感じている。22にもなってまとまった文章が書けないまま「現代アート作ってます!」なんて厚顔無恥にも程があるし、そういう部類の人間になってしまうことにこの四年間怯えながら生きてきたところがあるので、誰も見てないところで密かにトレーニングを積み重ねていきたい所存ではある。公開するにしても、あんまり見る人が多いと耐えられないからはてなブログなんかでひっそりやれたらいいかもしれない(やれた)。

    僕は全くと言っていいほど筋肉は無い。実際、最低限生きていく上で必要な身体能力は少しだと思うし、女性も男性も同じ場所で働けるようになってきた今の時代ではあまり関係がなくなっているような気もする。今「体を鍛える」ということは、なにか具体的な目的があるわけではなく、もっと抽象的な部分を豊かにする為に行っているように思える。

    アメリカの富裕層が貧困層より体が引き締まっていることからも明らかなように、自分自身のこころの余裕があることの表れであったり自分を肯定する為の一手段として、労力を使う必要がなくなった現代においても「体を鍛える」行為は失われずその地位を保ち続けている。高額なトレーニング施設や器具が目に入るようになったことからも分かるように今やそれは、一つの「レジャー」であり「贅沢」の一つとなっているのかもしれない。

    「筋肉がある男の人が好き」と言う人を見るたび、「お前は男らしさが無い人間だ」と言われているような気がして、ちょっと落ち込んでしまう。人によるが「男らしさ」というものは、少なからずともその人の魅力の一つである。

    いや、そもそも「らしさ」というものを獲得した時点で、なんらかの魅了する力が宿っているのかもしれない。「私」そのものが多様性の海に消えてしまうような現代において「らしさ」という大きな枠組みの中に属することができるだけでそれは社会参加できているのかもしれないし、そうやって人間は社会と向き合っていくことで自分自身の輪郭を形作っていくんだろうと思う。圧倒的な「らしさ」のパワーで僕も人を魅了できたら、と思うがそこに対するやる気や熱量はもうほとんどない。自分の環境をコロコロ変えることはできないから「もし自分がこうなっていたらこうかもしれない」と、違う世界線の自分を妄想する時間だけが増えていく。「独特」とか「他にない」みたいな言葉がその人の魅力を表すことが多いけど、結局「らしい」とか「〜っぽい」っていうのも、魅力の一つなんじゃないかと思う。

 

    別に日記が書きたいわけじゃない。昨日見てたテレビでスキージャンプ選手の高梨紗羅が「SNSをなぜしないのか」という質問に対して返していたように「私の生活を見たいと思う人がいない」だろうし(高梨選手は俺と違いすぎるけど)、そこまで1日に密度があるわけではない。むしろどんどん内容が薄くなっていってる。しかし、だからこそ書かないといけない気がしていたしそのための脳内の出力みたいなことをどこかでやっておかないと、大学にいた時の自分から離れていってしまうような気がして怖かった。だからこれを始めた。

    再度改めて言っておくとこれは「日記」ではなく、ただの「文章を書く練習」であり「頭の中を整理するためのクリアケース」みたいなもんだと思ってもらえればいい。てかそのつもりでやる。