「病み」について

 また同じ場所でモニターと見合っている。家じゃなんとなく集中できないから、近くにあるドトールの端っこの席を陣取りながらこれを書いている。といっても今日は、16時からの降水確率が40パーセントになっていて、そこから雨足が強まるらしい。何かをしようという気になる日ではないのは確かだが、パソコンを開くことすらもできないと僕はいよいよ「何もできないやつ」の烙印を自分に押してしまいそうなので、とりあえず玄関で靴紐を結び家から飛び出した次第である。家の中は窓際とリビングの間に僕の部屋があるので日当たりが非常に悪く、真昼間でも少し冷えていることが多い。一日中祖母が家に居て洗濯やら料理の準備をしているため生活音が絶えず、静かにものを書いたりじっと考えたりするのには向いていない空間なのだが、これも集中力が極端に足りない自分がどこかで思いついた言い訳なのかもしれない。

 しかし、何もやりきったことがないのかと言えばそういうわけでもなく2年前に参加したグループ展では、まあまあな規模の作品を展示にまで持って行ったし、1年前の今頃は映画を4ヶ月弱で100本観きり、そのレビューも書ききった。この4年間、何もしていなかったわけではないはずである。

 ただここ数ヶ月間で、学校を離れる前にあったペースだとか気持ちの高まりみたいなものが必然的に薄くなっていって、それに身を任せてしまっていることは確かだし、所謂「たるんでいる」状態なのかもしれない。

「たるんだ」状態は誰にでも起こりうることだが、それが全体にわたって見られる場合、あまりいいように思われないのが普通だろうし、二十歳をすぎた人間は基本的に「たるまない」ことを求められているように思う。

 

 僕が言えたことではないが、バイトなんかで社会の端の端の断片を垣間見た限り、長期間にわたっていくつかのことを記憶し何度も出力できる人間が有能、とされているようなところがあるのはなんとなく分かる。良い悪いという話ではなく、観測しきれない程に人間が存在しているこの世界が効率よく回っていく為に、僕が生まれる以前からあった「当たり前」というルールなのである。それはお互いを傷つけない「間合い」の取り方でもあり「動きの型」のようなものでもあるのかもしれない。すこし話が脱線してしまったが、書きたいことを書くと決めたので、気にせずやっていく。

 

 在学中、かなりの数「病み」がある友達が周りにいた。「病み」のある友達は退学して地元に帰ってしまう人が大半で、その後も一時期連絡が途絶えることがあった。自分の周りだけではなく「病み」を持った人はインターネットを介してその存在を目の当たりにすることがあるが、それを「メンヘラ」とネットスラングで言い表すことが多くなってきている。今や中高生から大人までもが簡単に立ち入ることができるようになったインターネットには誰かがSNSでアップロードした、腕を切って血を流しているところを収めた画像が調べればいくらでも見ることができる。

 この言葉はかなり広範囲にわたって定義されているせいか、否定的な意見も見られる。彼ら彼女らは多くの場合「かまってちゃん」という言葉で批判され、その存在を受け入れるひとと拒絶する人の二極化が進んでいるように日々感じている。この言葉自体の問題として、定義する範囲がいささか曖昧すぎるような気がするし、その人ごとに境遇が違うのにそれを病状や言動だけで位置付けようとすること自体に無理があると思う。しかし自分のことですら分からないことが多いのに、更に理解できないような言動をする人がいればあまりいい気持ちがしないのは確かだし、攻撃してしまいたくなる気持ちも分かる。

 だがしかしそもそも、誰の心の中にも「病み」ならぬ「闇」はあると思う(それは潜在的な暴力性でもある)。経験からすれば、なにかものを考え続けていれば「暗い部分」が気づかないうちに生まれている。

 調べてみれば、アカゲザルが持っているニューロンの総数が63億7千6百個、人間が860億個あるらしい。それが365日何かものを考えながらウロウロしているんだから、頭の中に何があってもおかしくないのかもしれない。しかし、それだけのニューロン数を持った生命体が今インターネットの空間で「闇」を大量に吐き出している状況は、そのインターネットが無かった頃にはあまり見えてこなかった景色だろうし、これから来る時代の兆候を示しているのではないかとぼんやり思ってしまったりする。そういう感覚がある。

 

 つながることが日常化した現在が招いた結果として「闇」は「闇」としてとっておきにくい時代になってしまったのかもしれない。

   承認欲求と自我との狭間で苦しんだ挙句それはインターネット上へと漏れ出てしまうことが多いし、それでは同じような感情を持った人との間で過度に共有された結果、個人が持つ「闇」そのもののアイデンティティーが無くなってしまうのではないだろうかと思う。

   もう連絡もあまり取らなくなってしまった友達が二回生の頃に言っていた「自分がいずれ、大衆に埋没していってしまう未来しか見えない」という言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。