ミロスラブ・スラボシュピツキー監督「ザ・トライブ」印象批評

   2016年の12月から映画を4ヶ月で100本レビューした中で、Facebookに自分だけ見れるようにメモとしてアップしていた文章があった。その中で覚えておきたいものがあったので、ここにも備忘録として貼っておく。このブログの趣旨から少し外れるけど、2ヶ月近く更新してなかったので今回は特別。

 

    小学生の頃に、視聴覚障害の人が授業に来たことがある。耳パッドやアイマスクを使い実際に校舎の周りやグラウンドを何周か回る、といったようなことをした記憶がある。そのとき私が感じたのは、耳パッドを付けているときは接触部分からなる心臓の鼓動であり、アイマスクを付けているときは瞼を通して見えてくる赤のグラデーションと血管の輪郭だった。


   それ以来その授業のことは考えたこともなかったし、記憶にも留めていなかったが、去年から映画を見続けている間に何本か障害について扱った作品に出会い、このことを思い出した。
「長い間目が見えない、耳が聞こえない」ということは、今思えばあの時感じたような瞬間的な感覚だけでは体験不可能だったのかもしれない。なぜなら、何かが欠けてしまっているという感覚は、時間軸があって初めて分かるからである。


   この映画では人の声が発されるのが2場面ほどしかなく、それ以外は環境音のみである。2時間弱という長さのため、だんだんアンビエント音楽を聴いているような気になってくるが、所々にやってくる学校内のバイオレンスで目が醒まされる。中で話される内容は全て手話とウクライナ文字によって表される為、両者を理解していないと話を細かく追うのは難しい。カメラワークも平面的で引きが多い為、シーンそのものに感情移入させることも無い。鑑賞者に画面を通して伝えられるのはバイオレンスによる痛みと、登場人物の周りから聞こえてくる「彼らからは聞こえない」無機質な環境音である。
始まった途端、あまりのついて行けなさに困惑したが冒頭から主人公がボコボコにされたりセックス描写があったりで、映画そのものの迫力に圧倒され巻き込まれていくような感覚があった。かと思えば間にある長い飲み会のシーンでがっつり置いてけぼりにされて、必死に何をしているのか画面の端々に気を張らなければついて行けないところもあった。


   しかしそれは決して悪いことではなく、観ているうちに画面内で意識する方向が決定的に変わっていくような効果があったように思う。中でも印象的だったのは、登場人物が段々誰が誰か分からなくなったことである(単に物覚えが悪いだけかもしれないが)。私たち人間が同じ人間に出会い、その一人一人のことを覚える時、顔つきや表情、髪の形や声の調子・大きさ・高さなどを見たり聞いたりして覚える。それは日常生活の中で無意識にやっていることであるが、その判断する要素が一つでもなくなってしまうと、余程容姿に特徴がなければ覚えるのは非常に難しくなる。映画の中の視線は次第に「周りの環境」と「バイオレンスそのもの」とを行き来するようになる。改めてここで、私たちが知覚され得るものがいかに危ういものかが分かってくる。


   そして後半では遂に「伝える」ことそのものの切実性が鑑賞者の眼前にまで抉り出され、前半とはまったく違う感覚の中で彼らのいく末を見届けることとなる。2時間弱の長尺かつ「声がない」体験の中で私が感じたのは、“人の音”がいかに日々無意識に捉えられているか、また私たちがどれだけ「体験」をしてもリアリティが得られない「わからなさ」だった。