カメラと人における「敵対」の質について

 

1.1. 目的

美術史家であり評論家であるクレア・ビショップ は、1998年に刊行されたニコラ・ブリオーの「関係性の美学」に対して、その理論だけでは当時の現代的な問題や関心をすべて内包はできないと批判し、政治理論家であるエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの「敵対」という概念を用いて、現代の試みに対してより包括的な枠組みを示した。ビショップによって述べられた敵対関係は、人間が不完全なの実体としてその場にいることによって同一化していくプロセスのあいだから発生してくるものだったが、私はこのような緊張関係は映像、つまり身体を媒介することがなくとも経験されるように思われる。そこで、本研究では「緊張関係」というキーワードからその理解を深め、考えていくことにする。

 

1.2. 背景

京都造形芸術大学(現京都芸術大学)三年次、インターネットの動画サイトにある「ケンカ動画」への興味から、それを再現し4×5で撮影し2m×3mで出力した「fights」シリーズを制作した。

暴力は、人間社会における歪みがもたらす結果で ある。社会を構築し、絶えず他者との関係の中にある人間は常に暴力を抱えた動物である。 ゆえに不和が生まれ、互いに分断することによって暴力はまた新たな側面と形態をなしていく。私がある他者を殴った  (又は殴られる)とする。そこで発生する身体的暴力 は、抑圧的暴力を含む他者との関係によって形成された個人単位での不和などが原因であり、それが私と他者という最小単位の社会におけるコミュニケーションであることからも、人を殴るという行為は社会性が含まれていることが分かる。私はこのような社会に氾濫する暴力とそれを受容する鑑賞者に目を向け、その構造の中で発生する新たな暴力性やそれが快楽に転じることなどの諸問題を考えるために写真や映像を用いて制作を行ってきた。

 

1.3. 動機

 以上の流れから、クレアビショップによりこれまで述べられてきた「敵対」の質について細かく考えて分析していくことを通して、それ以前の根本的な人間における支配・被支配の関係性を解き明かしていくと同時に、そこから私が制作の領域としているカメラによってあらゆるイメージができる際に生じる「緊張関係」はなぜ発生するのかということを、イメージにおける一つの身体論として提示する必要性があると感じた。

 

2.1. 先行研究

⑴『他者の苦痛へのまなざし』(2003年、スーザン・ソンタグ、北條文緒訳、みすず書房):戦争の現実を歪曲するメディアや紛争を表面的にしか判断しない専門家への鋭い批判であると同時に、現代における写真=映像の有効性を真摯に追究した〈写真論〉でもある。自らの戦場体験を踏まえつつ論を進める中で、ソンタグは、ゴヤの「戦争の惨禍」からヴァージニア・ウルフクリミア戦争からナチの強制収容所イスラエルパレスチナ、そして、2001年9月11日のテロまでを呼び出し、写真のもつ価値と限界を検証してゆく。

⑵『カメラの前で演じること』(2015年、濱口竜介、野原位、高橋知由、左右社):第68回ロカルノ国際映画祭最優秀女優賞、ならびに脚本スペ シャルメンション受賞を果たした5時間17分もの長編「ハッピーアワー」を監督した濱口竜介の書き下ろし演出本。「ハッピーアワー」の脚本とサブテキストが載せられている他、彼自身が撮影をする中で出てきた「カメラの前で演じること」という問題意識が、身体論であり映像論のようなものへと展開されている。

⑶『第三空間—ポストモダンの空間論的転回—』(2017年、エドワード・W・ソジャ、加藤政洋 訳、青土社):すべての現代社会批判の理論的出発点。地理学、フェミニズムポストコロニアル批評などの諸分野における「空間論的転回」の動向、そして新しい文化研究の潮流を、ルフェーブル、フーコーらを効果的に引用しつつソジャー流の手つきで軽快にまとめあげる。

⑷『複製技術時代の芸術』(1999年、ヴァルター・ベンヤミン佐々木基一編、晶文社):ドイツの文化評論家ヴァルター・ベンヤミンが1936 年に著した評論。複製技術は芸術作品に「アウラの喪失」を及ぼしたとして、エイゼンシュテインの映画やアジェの写真などを参考に複製技術の可能性を論じている。

⑸『観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ—』(2005年、ジョナサン・クレーリー、遠藤知巳訳、以文社):視覚をめぐる人間と対象の関係の変容をフーコーの系譜学の手法を用い論じる。表象の歴史を系譜化している。

 

2.3. 制作内容

インターネットなどの情報通信メディアが発達した状況にて、これらの「緊張関係」はさらに構造を変化させながら人間の視聴覚を刺激するように強調されつつある。それゆえに、私は自分の「暴力」というテーマの根底にある「力と意味」の関係についても、制作をすることを通して考えていきたい。