カメラと人における「敵対」の質について

 

1.1. 目的

美術史家であり評論家であるクレア・ビショップ は、1998年に刊行されたニコラ・ブリオーの「関係性の美学」に対して、その理論だけでは当時の現代的な問題や関心をすべて内包はできないと批判し、政治理論家であるエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの「敵対」という概念を用いて、現代の試みに対してより包括的な枠組みを示した。ビショップによって述べられた敵対関係は、人間が不完全なの実体としてその場にいることによって同一化していくプロセスのあいだから発生してくるものだったが、私はこのような緊張関係は映像、つまり身体を媒介することがなくとも経験されるように思われる。そこで、本研究では「緊張関係」というキーワードからその理解を深め、考えていくことにする。

 

1.2. 背景

京都造形芸術大学(現京都芸術大学)三年次、インターネットの動画サイトにある「ケンカ動画」への興味から、それを再現し4×5で撮影し2m×3mで出力した「fights」シリーズを制作した。

暴力は、人間社会における歪みがもたらす結果で ある。社会を構築し、絶えず他者との関係の中にある人間は常に暴力を抱えた動物である。 ゆえに不和が生まれ、互いに分断することによって暴力はまた新たな側面と形態をなしていく。私がある他者を殴った  (又は殴られる)とする。そこで発生する身体的暴力 は、抑圧的暴力を含む他者との関係によって形成された個人単位での不和などが原因であり、それが私と他者という最小単位の社会におけるコミュニケーションであることからも、人を殴るという行為は社会性が含まれていることが分かる。私はこのような社会に氾濫する暴力とそれを受容する鑑賞者に目を向け、その構造の中で発生する新たな暴力性やそれが快楽に転じることなどの諸問題を考えるために写真や映像を用いて制作を行ってきた。

 

1.3. 動機

 以上の流れから、クレアビショップによりこれまで述べられてきた「敵対」の質について細かく考えて分析していくことを通して、それ以前の根本的な人間における支配・被支配の関係性を解き明かしていくと同時に、そこから私が制作の領域としているカメラによってあらゆるイメージができる際に生じる「緊張関係」はなぜ発生するのかということを、イメージにおける一つの身体論として提示する必要性があると感じた。

 

2.1. 先行研究

⑴『他者の苦痛へのまなざし』(2003年、スーザン・ソンタグ、北條文緒訳、みすず書房):戦争の現実を歪曲するメディアや紛争を表面的にしか判断しない専門家への鋭い批判であると同時に、現代における写真=映像の有効性を真摯に追究した〈写真論〉でもある。自らの戦場体験を踏まえつつ論を進める中で、ソンタグは、ゴヤの「戦争の惨禍」からヴァージニア・ウルフクリミア戦争からナチの強制収容所イスラエルパレスチナ、そして、2001年9月11日のテロまでを呼び出し、写真のもつ価値と限界を検証してゆく。

⑵『カメラの前で演じること』(2015年、濱口竜介、野原位、高橋知由、左右社):第68回ロカルノ国際映画祭最優秀女優賞、ならびに脚本スペ シャルメンション受賞を果たした5時間17分もの長編「ハッピーアワー」を監督した濱口竜介の書き下ろし演出本。「ハッピーアワー」の脚本とサブテキストが載せられている他、彼自身が撮影をする中で出てきた「カメラの前で演じること」という問題意識が、身体論であり映像論のようなものへと展開されている。

⑶『第三空間—ポストモダンの空間論的転回—』(2017年、エドワード・W・ソジャ、加藤政洋 訳、青土社):すべての現代社会批判の理論的出発点。地理学、フェミニズムポストコロニアル批評などの諸分野における「空間論的転回」の動向、そして新しい文化研究の潮流を、ルフェーブル、フーコーらを効果的に引用しつつソジャー流の手つきで軽快にまとめあげる。

⑷『複製技術時代の芸術』(1999年、ヴァルター・ベンヤミン佐々木基一編、晶文社):ドイツの文化評論家ヴァルター・ベンヤミンが1936 年に著した評論。複製技術は芸術作品に「アウラの喪失」を及ぼしたとして、エイゼンシュテインの映画やアジェの写真などを参考に複製技術の可能性を論じている。

⑸『観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ—』(2005年、ジョナサン・クレーリー、遠藤知巳訳、以文社):視覚をめぐる人間と対象の関係の変容をフーコーの系譜学の手法を用い論じる。表象の歴史を系譜化している。

 

2.3. 制作内容

インターネットなどの情報通信メディアが発達した状況にて、これらの「緊張関係」はさらに構造を変化させながら人間の視聴覚を刺激するように強調されつつある。それゆえに、私は自分の「暴力」というテーマの根底にある「力と意味」の関係についても、制作をすることを通して考えていきたい。

 

ミロスラブ・スラボシュピツキー監督「ザ・トライブ」印象批評

   2016年の12月から映画を4ヶ月で100本レビューした中で、Facebookに自分だけ見れるようにメモとしてアップしていた文章があった。その中で覚えておきたいものがあったので、ここにも備忘録として貼っておく。このブログの趣旨から少し外れるけど、2ヶ月近く更新してなかったので今回は特別。

 

    小学生の頃に、視聴覚障害の人が授業に来たことがある。耳パッドやアイマスクを使い実際に校舎の周りやグラウンドを何周か回る、といったようなことをした記憶がある。そのとき私が感じたのは、耳パッドを付けているときは接触部分からなる心臓の鼓動であり、アイマスクを付けているときは瞼を通して見えてくる赤のグラデーションと血管の輪郭だった。


   それ以来その授業のことは考えたこともなかったし、記憶にも留めていなかったが、去年から映画を見続けている間に何本か障害について扱った作品に出会い、このことを思い出した。
「長い間目が見えない、耳が聞こえない」ということは、今思えばあの時感じたような瞬間的な感覚だけでは体験不可能だったのかもしれない。なぜなら、何かが欠けてしまっているという感覚は、時間軸があって初めて分かるからである。


   この映画では人の声が発されるのが2場面ほどしかなく、それ以外は環境音のみである。2時間弱という長さのため、だんだんアンビエント音楽を聴いているような気になってくるが、所々にやってくる学校内のバイオレンスで目が醒まされる。中で話される内容は全て手話とウクライナ文字によって表される為、両者を理解していないと話を細かく追うのは難しい。カメラワークも平面的で引きが多い為、シーンそのものに感情移入させることも無い。鑑賞者に画面を通して伝えられるのはバイオレンスによる痛みと、登場人物の周りから聞こえてくる「彼らからは聞こえない」無機質な環境音である。
始まった途端、あまりのついて行けなさに困惑したが冒頭から主人公がボコボコにされたりセックス描写があったりで、映画そのものの迫力に圧倒され巻き込まれていくような感覚があった。かと思えば間にある長い飲み会のシーンでがっつり置いてけぼりにされて、必死に何をしているのか画面の端々に気を張らなければついて行けないところもあった。


   しかしそれは決して悪いことではなく、観ているうちに画面内で意識する方向が決定的に変わっていくような効果があったように思う。中でも印象的だったのは、登場人物が段々誰が誰か分からなくなったことである(単に物覚えが悪いだけかもしれないが)。私たち人間が同じ人間に出会い、その一人一人のことを覚える時、顔つきや表情、髪の形や声の調子・大きさ・高さなどを見たり聞いたりして覚える。それは日常生活の中で無意識にやっていることであるが、その判断する要素が一つでもなくなってしまうと、余程容姿に特徴がなければ覚えるのは非常に難しくなる。映画の中の視線は次第に「周りの環境」と「バイオレンスそのもの」とを行き来するようになる。改めてここで、私たちが知覚され得るものがいかに危ういものかが分かってくる。


   そして後半では遂に「伝える」ことそのものの切実性が鑑賞者の眼前にまで抉り出され、前半とはまったく違う感覚の中で彼らのいく末を見届けることとなる。2時間弱の長尺かつ「声がない」体験の中で私が感じたのは、“人の音”がいかに日々無意識に捉えられているか、また私たちがどれだけ「体験」をしてもリアリティが得られない「わからなさ」だった。

「思い出せなくなること」について

 何回も聴いていた曲とアーティストの名前が突然思い出せなくなることがある。

 でもそういう時に限ってそれがどんな雰囲気を纏っているかとか評判がよかったか悪かったか]とか、ふわふわした周りのことだけを覚えていてどう調べればたどり着くのか分からなくなって気持ち悪くなることが多い。

 そんな時、私はその「気持ち悪い感じ」に支配され、見つかるまで半日以上を費やしてでも調べ続けてしまう。しかし大抵は、やっと見つかった曲も二・三回聴くと飽きてしまい、それに掛けた時間の元を取るぐらいの満足感を得られることは少ない。

 音楽だけの話でなく、こんなふうに今まで知っていたはずだった固有名詞が急に「思い出せなくなること」がしょっちゅうある。しかもそれが好きなものの範囲だけに留まらず、嫌いなものやあまり好きじゃないものも後からなんとなく気になって調べようとしてしまうから更に困る。そんな日は一日中喉の奥がつっかえている感じがするし、あまりこんな思いはしたくないと毎回思う。

 

 いわゆる「頭の中の引き出しが多い人」は羨ましいと思う。社会で生きていく上で「思い出せなくなること」が少なければ少ない程無駄がないし、誰でも気の利いたこというには多かれ少なかれ「引き出し」の数を増やす練習をしているのかもしれない。

 しかし、人間は「忘れる」ことによってみずからを守ろうとしていることもある。自分自身が経験した過去のトラウマや陰惨な出来事、そこまでではなくとも自分にとってあまり都合のよくないことは「忘れる」ことで、ある一定の深度以上にそのダメージが侵食することを防いでいる。外で起きた出来事は、なんらかの痕跡がどこかに残っている限り完全に消滅することはないが、私たちが「覚える」ことをその部分で放棄した途端、起こった出来事はそれまでの濃度を失い、経る時間の長さと比例して希釈されていく。今は情報が数秒単位で変化しているから「思い出せなくなる」までの速度は、昔と比べられないレベルに来ているのかもしれない。

 覚えるのが苦手な人は常にメモを取ればいい、というやり取りをよく見ることがある。それに対する意見として、メモを取ったとしてもそのメモすら無くしてしまうじゃないか、という主張もよく見る。原因は様々だろうが「モノ」が二次元・三次元問わず溢れかえってしまっている現在においては、身の周りを「整理」することや「忘れないでいる」こと自体少し無理があるのではないかと思う。

 でもどんな時代であろうと誰にでも大事なことの一つぐらいは、頭から抜けてしまわないよう奥の方にしまっておきたいと思うはずである。大事にするべきことは人によって様々であるが先ほど述べたようにそれすらも「思い出せなくなる」可能性があるので、それを大事にし続ける技術は身につけておくべきである。それは「自分のやり方で勉強し続けること」で形になっていくような気がする。

「蛍光灯」について

 また、学校に来てしまっている。家にいてもなにもやる気が起きない。言い訳でしかないのだろうが、起きた後のフワフワした感じをずっと引きずったままこの文章を書いている。偶然会った友達の話によると同じ学科の後輩が最近、積極的に展覧会や作品制作をやっているらしい。その人たちも来年にはもう卒業している。時間の流れは、思っていたよりも早かったようだ。

 肌がすぐに荒れてしまう。昼夜逆転の生活を送っていたこともあるが、ちゃんと早寝早起きの習慣を身につけても全く消えてくれない。ニキビがあるストレスでまたニキビができる、といった悪循環がここ数年間で定期的にやってくるようになった。そろそろ許してほしい。

 

 私は昔から、あまり夕方が好きではない。でも「夕日が綺麗だから見て」と言われればもちろん見ようとするし「綺麗やな」と言ってみたりもするが、正直夕日特有の赤くて強い、温度のある光はなんだか不安になってしまう。

 日が沈んで夜がくることが怖いからだろうか。確かに、夜がくるとなんとなく落ち込んでしまうし、朝の自分からすれば見ていられないようなことを考えてしまったりする。しかし、昼よりも夜の方が静かでものを考えている時間は多く、70回に1回ぐらいの確率で我ながら面白いアイデアを思いつくタイミングがある。どちらがいいのか未だに分かっていないが、少なくともイメージではなく言葉という媒体でなにか残しておくには、夜はあまりにも暴走しすぎているような気がする。夜にものを書いても、ろくなことがないと自分でも思う。

 夜の蛍光灯が放つ水銀の光や、LEDによる半導体の光が好きだということを言ってしまうといささか俗っぽく聞こえるかもしれないが、日光が雲に隠れてしまったり沈んでしまったりするのに対して、それら人工的な光は私たちが「光を浴びたいときに浴びる」ことを可能にしてくれるものだと思うし、そういう意味で自分も人工的な光が好きなのだと思う。24時間365日で昼も夜も営業している店舗に半ば依存状態である現代の人々にとって、途切れることなく照らされているコンビニやコインランドリーの光は、もはや欠かせない視覚的享楽の一つとして確立されてしまっているのかもしれない。

 しかし、それは私たち人間が科学によって自然の秩序から距離を置いたことによる「甘え」だとも捉えられる。実際、経済活動が活発な地域では蛍光灯の水銀による過剰な光が近隣住民の日常生活に悪影響を及ぼすとして、環境省は1998年に「光害対策ガイドライン」を定めているらしい。これは人間が自然の脅威や規則的な秩序を拒否し、我々も自然のごく一部であるという現実から逃げ続けた一つの結果でもあるし、技術の発展によって見えてきた「人間にとって無理がある部分」なんだろうと思う(実際、太陽光はセロトニンも含まれているし蛍光灯の10倍ほどの照度を持っている。いいことしかない)。

 この前見たある写真作品にも、3.11による東北の津波被害を防ぐために作られた巨大な「壁」のようにしか見えない防潮堤を撮影することを通して、そのような人間が行ってきた自然に対する「拒否」の形が強く見られていた。トークショーで彼らが話していたことの中で最も印象に残ったのは、それが人間に対して行う「権力の誇示」の一手段としても取られていることが多く、ひとえに自然から身を遠ざける目的として作られたものではないということであった。

 それは身の回りにもある「人工的な光」にも言えることではないだろうか。 夜、まばゆい人工の光が集まっているコンビニやコインランドリーはほとんどがフランチャイズ経営のチェーン店であり、それは都会から地方の田舎まで経営の場を広げようとしている。それは資本主義社会における「権力の誇示」としても考えることができるかもしれない。もっと身近なもので言えば、道端にある街灯もそうである。それらは微弱でありながらも、れっきとした人間が自然に対して行っている「拒否」の形であり、交通インフラ整備による政府の「権力」として考えることができるのかもしれない。

 

 「人工知能が自我を持ち、突然人間に襲いかかってきて全面戦争になる」といったダンシモンズの小説みたいなことは今日の科学技術では考えにくくなっているように、支配する対象そのものが目の前に姿をあらわして直接我々に攻撃してくるようなことは今の現実世界ではまずないと思う。むしろ公共の利益や福祉につながるように、理にかなう形に姿を変えていくような気がする。実はもう身近なところに「大きな権力の小さな誇示」が無数に漂っているのかもしれない。

 

 少し大げさに書きすぎた。だがしかし、私たちの生活を便利にしてきたのが同じ人間であることは自明の事で、その上全員違う動きをしているから一瞬で世界が塗り変わってしまうようなことはあまり想像できないしそれぞれの人生をやっていくことで誰しも精一杯だと思うから、そんな簡単に世界征服はされないと思う。そんな遠い話より、ニュースでブラック企業が告発されたことだとか働き方改革の矛盾点とかの方に私自身も含めてみんな目がいってしまうと思う。

もしかしたら世界で一番見られてるのは、SNSから引っ張ってきたバズってるおもしろ動画の一部分なんかだったりして!

 三回目にして、1日サボってしまった。何を書いたらいいか分からなくなってしまったと言えばそれでおしまいなのだが、それでは文章も何もあったもんではないので、それすらもネタにしてこれを書いていこうと思う。

 やはり俺には集中力が欠けているのかもしれない。これを言う時点で大したことはないのかもしれないが、常に思考していようと朝起きたところからぐるぐる考えているとだんだん頭の中が詰まったような感じになって苦しくなる時がある。トイレから戻ってきたらまたボーッとしている。そんなときはとりあえず外に出てみる。

 「考えるより手を動かせ」とよく言われる。確かに手を動かすことは大事だ。頭の中でごちゃごちゃやっているうちは実際なにも生まれないし、なんらかの形にしないと人には伝わらない。動物にすら伝わらないし。それは音でも文字でも絵でも彫刻でも、なんでもいいと思う。ただ、ものを形にしようとした途端「恥ずかしさ」が伴う。これは誰かに見える形式に持っていく過程では必ず生まれるどうしようもないことだが、一般的にはそれは時間をかけた「慣れ」によって解消されていく。これは誰にでも起こりうると思う。しかし「慣れ」ることによって形にするまでの速度や精度が向上する反面、それまでものを作る時にあった「恥ずかしさ」と一緒に持っていたイノセントな何か、言うなれば「衝動」のようなものが失われてしまうような気がする。これもみんなに共通する話だと思う。

 

 今、喫茶店の端でまた長居しているのだが、周りのほとんどの人がスーツを着てタブレットスマホを触っている。会社の上司らしき人と電話をしている人もいる。この日本で「作る」ことと「働く」ということは実際、接続しにくい環境にあると思う。書類作成・監視・管理・記録・連絡・応対。「仕事」と呼ばれる行為の大半は「右から左に流していく」ことの連続で成り立っているような気がする。そして給料をもらい、余暇を使い「消費」をする。食べる・買う・旅する・見る・生活する。「消費」することは「恥ずかしさ」を伴わない。「作る」行為は当事者であるがゆえに作者であるという「緊張」があるが「消費」する側は何も気負う必要はないのかもしれない。

 俺が生まれる前からある人間社会に対して、何を言ったところで変わるわけがないし、何も言おうとは思わないがこのままでは自分が世界から淘汰されていくような、悪い想像ばかりする癖が治らない。

 

 関係ないけど、一人称を統一する気はあまりない。それについても近々書きたいと思う。

「病み」について

 また同じ場所でモニターと見合っている。家じゃなんとなく集中できないから、近くにあるドトールの端っこの席を陣取りながらこれを書いている。といっても今日は、16時からの降水確率が40パーセントになっていて、そこから雨足が強まるらしい。何かをしようという気になる日ではないのは確かだが、パソコンを開くことすらもできないと僕はいよいよ「何もできないやつ」の烙印を自分に押してしまいそうなので、とりあえず玄関で靴紐を結び家から飛び出した次第である。家の中は窓際とリビングの間に僕の部屋があるので日当たりが非常に悪く、真昼間でも少し冷えていることが多い。一日中祖母が家に居て洗濯やら料理の準備をしているため生活音が絶えず、静かにものを書いたりじっと考えたりするのには向いていない空間なのだが、これも集中力が極端に足りない自分がどこかで思いついた言い訳なのかもしれない。

 しかし、何もやりきったことがないのかと言えばそういうわけでもなく2年前に参加したグループ展では、まあまあな規模の作品を展示にまで持って行ったし、1年前の今頃は映画を4ヶ月弱で100本観きり、そのレビューも書ききった。この4年間、何もしていなかったわけではないはずである。

 ただここ数ヶ月間で、学校を離れる前にあったペースだとか気持ちの高まりみたいなものが必然的に薄くなっていって、それに身を任せてしまっていることは確かだし、所謂「たるんでいる」状態なのかもしれない。

「たるんだ」状態は誰にでも起こりうることだが、それが全体にわたって見られる場合、あまりいいように思われないのが普通だろうし、二十歳をすぎた人間は基本的に「たるまない」ことを求められているように思う。

 

 僕が言えたことではないが、バイトなんかで社会の端の端の断片を垣間見た限り、長期間にわたっていくつかのことを記憶し何度も出力できる人間が有能、とされているようなところがあるのはなんとなく分かる。良い悪いという話ではなく、観測しきれない程に人間が存在しているこの世界が効率よく回っていく為に、僕が生まれる以前からあった「当たり前」というルールなのである。それはお互いを傷つけない「間合い」の取り方でもあり「動きの型」のようなものでもあるのかもしれない。すこし話が脱線してしまったが、書きたいことを書くと決めたので、気にせずやっていく。

 

 在学中、かなりの数「病み」がある友達が周りにいた。「病み」のある友達は退学して地元に帰ってしまう人が大半で、その後も一時期連絡が途絶えることがあった。自分の周りだけではなく「病み」を持った人はインターネットを介してその存在を目の当たりにすることがあるが、それを「メンヘラ」とネットスラングで言い表すことが多くなってきている。今や中高生から大人までもが簡単に立ち入ることができるようになったインターネットには誰かがSNSでアップロードした、腕を切って血を流しているところを収めた画像が調べればいくらでも見ることができる。

 この言葉はかなり広範囲にわたって定義されているせいか、否定的な意見も見られる。彼ら彼女らは多くの場合「かまってちゃん」という言葉で批判され、その存在を受け入れるひとと拒絶する人の二極化が進んでいるように日々感じている。この言葉自体の問題として、定義する範囲がいささか曖昧すぎるような気がするし、その人ごとに境遇が違うのにそれを病状や言動だけで位置付けようとすること自体に無理があると思う。しかし自分のことですら分からないことが多いのに、更に理解できないような言動をする人がいればあまりいい気持ちがしないのは確かだし、攻撃してしまいたくなる気持ちも分かる。

 だがしかしそもそも、誰の心の中にも「病み」ならぬ「闇」はあると思う(それは潜在的な暴力性でもある)。経験からすれば、なにかものを考え続けていれば「暗い部分」が気づかないうちに生まれている。

 調べてみれば、アカゲザルが持っているニューロンの総数が63億7千6百個、人間が860億個あるらしい。それが365日何かものを考えながらウロウロしているんだから、頭の中に何があってもおかしくないのかもしれない。しかし、それだけのニューロン数を持った生命体が今インターネットの空間で「闇」を大量に吐き出している状況は、そのインターネットが無かった頃にはあまり見えてこなかった景色だろうし、これから来る時代の兆候を示しているのではないかとぼんやり思ってしまったりする。そういう感覚がある。

 

 つながることが日常化した現在が招いた結果として「闇」は「闇」としてとっておきにくい時代になってしまったのかもしれない。

   承認欲求と自我との狭間で苦しんだ挙句それはインターネット上へと漏れ出てしまうことが多いし、それでは同じような感情を持った人との間で過度に共有された結果、個人が持つ「闇」そのもののアイデンティティーが無くなってしまうのではないだろうかと思う。

   もう連絡もあまり取らなくなってしまった友達が二回生の頃に言っていた「自分がいずれ、大衆に埋没していってしまう未来しか見えない」という言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。

「らしさ」について

    さて。やっとこれを書き始めることができた。今、昼過ぎ。大学にある図書館の端っこでこれをワードで打ち込んでいる。Wi-Fiは期限を過ぎてしまっていて使えない。さっき赤部屋(コースの職員室)に行ってみたけど、なんだか気まずくなってすぐ退散してしまった。よく考えてみれば、卒業したばかりの人間が何も用がないくせに先生に話に行くのは少し失礼なのかもしれないし、向こうも新しい生徒や後輩の世話でいっぱいいっぱいだと思う。俺は働きもせずに何をしているのか。バカにされて当然である。

 

    1日1枚、こんな感じでゆるく文章を作る練習をしていこうと思う。といっても、どうせ俺のことだし一人でやってるとモチベーションが下がってくると思うので、どこかに発表するか公開する場を設けたいと思う。なんの予定もないけど。とにかく、こうやって途中で脱線しながらも自分が周りの物事に対して思っていること/考えていることを文章の形式で、日本語で整理してまとめる行為は続けていくべきだし、何も制作していない今の状態だとなおさら必要だと感じている。22にもなってまとまった文章が書けないまま「現代アート作ってます!」なんて厚顔無恥にも程があるし、そういう部類の人間になってしまうことにこの四年間怯えながら生きてきたところがあるので、誰も見てないところで密かにトレーニングを積み重ねていきたい所存ではある。公開するにしても、あんまり見る人が多いと耐えられないからはてなブログなんかでひっそりやれたらいいかもしれない(やれた)。

    僕は全くと言っていいほど筋肉は無い。実際、最低限生きていく上で必要な身体能力は少しだと思うし、女性も男性も同じ場所で働けるようになってきた今の時代ではあまり関係がなくなっているような気もする。今「体を鍛える」ということは、なにか具体的な目的があるわけではなく、もっと抽象的な部分を豊かにする為に行っているように思える。

    アメリカの富裕層が貧困層より体が引き締まっていることからも明らかなように、自分自身のこころの余裕があることの表れであったり自分を肯定する為の一手段として、労力を使う必要がなくなった現代においても「体を鍛える」行為は失われずその地位を保ち続けている。高額なトレーニング施設や器具が目に入るようになったことからも分かるように今やそれは、一つの「レジャー」であり「贅沢」の一つとなっているのかもしれない。

    「筋肉がある男の人が好き」と言う人を見るたび、「お前は男らしさが無い人間だ」と言われているような気がして、ちょっと落ち込んでしまう。人によるが「男らしさ」というものは、少なからずともその人の魅力の一つである。

    いや、そもそも「らしさ」というものを獲得した時点で、なんらかの魅了する力が宿っているのかもしれない。「私」そのものが多様性の海に消えてしまうような現代において「らしさ」という大きな枠組みの中に属することができるだけでそれは社会参加できているのかもしれないし、そうやって人間は社会と向き合っていくことで自分自身の輪郭を形作っていくんだろうと思う。圧倒的な「らしさ」のパワーで僕も人を魅了できたら、と思うがそこに対するやる気や熱量はもうほとんどない。自分の環境をコロコロ変えることはできないから「もし自分がこうなっていたらこうかもしれない」と、違う世界線の自分を妄想する時間だけが増えていく。「独特」とか「他にない」みたいな言葉がその人の魅力を表すことが多いけど、結局「らしい」とか「〜っぽい」っていうのも、魅力の一つなんじゃないかと思う。

 

    別に日記が書きたいわけじゃない。昨日見てたテレビでスキージャンプ選手の高梨紗羅が「SNSをなぜしないのか」という質問に対して返していたように「私の生活を見たいと思う人がいない」だろうし(高梨選手は俺と違いすぎるけど)、そこまで1日に密度があるわけではない。むしろどんどん内容が薄くなっていってる。しかし、だからこそ書かないといけない気がしていたしそのための脳内の出力みたいなことをどこかでやっておかないと、大学にいた時の自分から離れていってしまうような気がして怖かった。だからこれを始めた。

    再度改めて言っておくとこれは「日記」ではなく、ただの「文章を書く練習」であり「頭の中を整理するためのクリアケース」みたいなもんだと思ってもらえればいい。てかそのつもりでやる。