三回目にして、1日サボってしまった。何を書いたらいいか分からなくなってしまったと言えばそれでおしまいなのだが、それでは文章も何もあったもんではないので、それすらもネタにしてこれを書いていこうと思う。

 やはり俺には集中力が欠けているのかもしれない。これを言う時点で大したことはないのかもしれないが、常に思考していようと朝起きたところからぐるぐる考えているとだんだん頭の中が詰まったような感じになって苦しくなる時がある。トイレから戻ってきたらまたボーッとしている。そんなときはとりあえず外に出てみる。

 「考えるより手を動かせ」とよく言われる。確かに手を動かすことは大事だ。頭の中でごちゃごちゃやっているうちは実際なにも生まれないし、なんらかの形にしないと人には伝わらない。動物にすら伝わらないし。それは音でも文字でも絵でも彫刻でも、なんでもいいと思う。ただ、ものを形にしようとした途端「恥ずかしさ」が伴う。これは誰かに見える形式に持っていく過程では必ず生まれるどうしようもないことだが、一般的にはそれは時間をかけた「慣れ」によって解消されていく。これは誰にでも起こりうると思う。しかし「慣れ」ることによって形にするまでの速度や精度が向上する反面、それまでものを作る時にあった「恥ずかしさ」と一緒に持っていたイノセントな何か、言うなれば「衝動」のようなものが失われてしまうような気がする。これもみんなに共通する話だと思う。

 

 今、喫茶店の端でまた長居しているのだが、周りのほとんどの人がスーツを着てタブレットスマホを触っている。会社の上司らしき人と電話をしている人もいる。この日本で「作る」ことと「働く」ということは実際、接続しにくい環境にあると思う。書類作成・監視・管理・記録・連絡・応対。「仕事」と呼ばれる行為の大半は「右から左に流していく」ことの連続で成り立っているような気がする。そして給料をもらい、余暇を使い「消費」をする。食べる・買う・旅する・見る・生活する。「消費」することは「恥ずかしさ」を伴わない。「作る」行為は当事者であるがゆえに作者であるという「緊張」があるが「消費」する側は何も気負う必要はないのかもしれない。

 俺が生まれる前からある人間社会に対して、何を言ったところで変わるわけがないし、何も言おうとは思わないがこのままでは自分が世界から淘汰されていくような、悪い想像ばかりする癖が治らない。

 

 関係ないけど、一人称を統一する気はあまりない。それについても近々書きたいと思う。