「思い出せなくなること」について

 何回も聴いていた曲とアーティストの名前が突然思い出せなくなることがある。

 でもそういう時に限ってそれがどんな雰囲気を纏っているかとか評判がよかったか悪かったか]とか、ふわふわした周りのことだけを覚えていてどう調べればたどり着くのか分からなくなって気持ち悪くなることが多い。

 そんな時、私はその「気持ち悪い感じ」に支配され、見つかるまで半日以上を費やしてでも調べ続けてしまう。しかし大抵は、やっと見つかった曲も二・三回聴くと飽きてしまい、それに掛けた時間の元を取るぐらいの満足感を得られることは少ない。

 音楽だけの話でなく、こんなふうに今まで知っていたはずだった固有名詞が急に「思い出せなくなること」がしょっちゅうある。しかもそれが好きなものの範囲だけに留まらず、嫌いなものやあまり好きじゃないものも後からなんとなく気になって調べようとしてしまうから更に困る。そんな日は一日中喉の奥がつっかえている感じがするし、あまりこんな思いはしたくないと毎回思う。

 

 いわゆる「頭の中の引き出しが多い人」は羨ましいと思う。社会で生きていく上で「思い出せなくなること」が少なければ少ない程無駄がないし、誰でも気の利いたこというには多かれ少なかれ「引き出し」の数を増やす練習をしているのかもしれない。

 しかし、人間は「忘れる」ことによってみずからを守ろうとしていることもある。自分自身が経験した過去のトラウマや陰惨な出来事、そこまでではなくとも自分にとってあまり都合のよくないことは「忘れる」ことで、ある一定の深度以上にそのダメージが侵食することを防いでいる。外で起きた出来事は、なんらかの痕跡がどこかに残っている限り完全に消滅することはないが、私たちが「覚える」ことをその部分で放棄した途端、起こった出来事はそれまでの濃度を失い、経る時間の長さと比例して希釈されていく。今は情報が数秒単位で変化しているから「思い出せなくなる」までの速度は、昔と比べられないレベルに来ているのかもしれない。

 覚えるのが苦手な人は常にメモを取ればいい、というやり取りをよく見ることがある。それに対する意見として、メモを取ったとしてもそのメモすら無くしてしまうじゃないか、という主張もよく見る。原因は様々だろうが「モノ」が二次元・三次元問わず溢れかえってしまっている現在においては、身の周りを「整理」することや「忘れないでいる」こと自体少し無理があるのではないかと思う。

 でもどんな時代であろうと誰にでも大事なことの一つぐらいは、頭から抜けてしまわないよう奥の方にしまっておきたいと思うはずである。大事にするべきことは人によって様々であるが先ほど述べたようにそれすらも「思い出せなくなる」可能性があるので、それを大事にし続ける技術は身につけておくべきである。それは「自分のやり方で勉強し続けること」で形になっていくような気がする。